依存症とは、反省できない病気だと言う。
僕が好きだった人は、DVを受け続ける関係の中、やはり次は一人で自立したいと思っても、欝り、また支配被支配の関係を求め、浸っていった。
渦中にいる時は、本人には気づかないものだ。
繰り返さなくては、いけない理由があるのだと思う。
人は、変わろう、変わりたいと思う時、中途半端では、結局は腹の底からの納得で、動けない。
腹の底からの納得とは
「もうこのままでは本当に自分はダメだ」と、体感で、身体的な納得を通じて、覚えることだ。
頭からの理屈では、いくら「そうだ」と思っていても、本当には変わりたい道へは動けない。
それは、破滅を待っている、望んでいる、と映る人もいるだろう。
しかし、そうではない。
それは、痛みの再演なのだ。
子どもの頃に受けた時の、あの自覚しようもなかった、憎みたい人を、腹の底から憎みようもなかった、あの痛み。
その代わりに、自分を責めて、曲げてでも変化しようとしてきたね。
自傷行為というのがある。
過食嘔吐も、リスカも、おそらくは形の違いで、似ている部分はあるだろう。
自分が、本当に「どうしようもないんだ」と、身体の痛めつけは、知らせてくれる。
本当の隠した、封印し続けた自分が、痛みのさらに下にあるのではないかと。
パンドラの箱のように。
そして、それはおそらく正解なのだ。
そこに、敏感にして、行き着くことができたとしたなら。
多く、途中でなくなったり、一生、または抱え続ける人もいる。
だが、そういうところまで「自分が」行き着かないと、腹の底から泣けないのだ。
徹底的な痛みまで。
自分もそうだった。
それは、セルフで行う自傷行為から、対人関係を使うものまで、おそらくは同じだろう。
本当に納得できるまで、行くしかない時が。
(あなたは、それを見すえられますか?)
僕は何もできない。
自分の気持ちすらコントロールできない。
ただ、この自分が受ける痛みこそが、その人と同じ世界で生きているということを、どうしようもなくわかるということだ。
それだけだ。
痛いなら、あなたも痛いのだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿