2016年3月15日火曜日

いつも何度でも


 昨日、某創業支援の相談に行った。
もう書くのも嫌だが、スケジューリングのできなさと自分の締切りの守れなさに対する個別支援のことについてだ。

もちろんこの手の一般創業は絶対にこのテの相談には杓子定規で無理だろうと思ったが、藁にもというかんじで行った。
ちなみにこの数日前に障害者就労支援センターに断られている。

で、当然のことだが、事業計画や入居の相談はやっていても、スケジューリングに関するものはやっていないと明言された。
そんなことは知っている。
ニートやヒキが個別支援しないと就労も自営もうまくいかないのは周知だろうが、公的にはどう考えているのか聞いた。

で、彼らに対する特別な対策は民間以外、おそらくどこの自治体もやっていないだろうと答えられた。
そんなことも知っている。
民間、というのも某育てあげとかそういう例を出されるから…もう書くのもうんざりだ。

将来的にしようとしているのか、とも聞いた。
個人個人の深刻度がわからない限り、個別は無理だろうとのことだった。
そして、病児保育のように、この問題はニッチで、民間がやりはじめるしかないだろうと。
知りきっていることだ。

ようするに、永久に、一つも、この個別支援は行われないのだ。

自分に関しては、バイトをしながら少しづつ進めろと。
そうすれば計画性もつくと。
人を分散させて相談やパートナーを作れと。
これは支援の範疇ではないと。

「ひきこもり」に底つきはない。
彼らをひきこもりたらしめるイネイブラーの存在がいるからだ。
だが、同じように貧困にも底つきはない。
自立しない生活保護に依存するか、ODなど自分の意思も緩慢にした自殺というイネイブル(状況依存)な現実が延々とあるからだ。

ようするに自分や自分たちには何もない。
すべて自己責任の荒野で、「そうではない」といってもイネイブルな制度頼りか、それらか死にいきつくまでの延々とした現実逃避しか残されていないのだ。

助ける現実はない。
他人の価値観や都合に管理される働き方で身体をこわし耐えられず病んだ。
あそこに帰るくらいなら…
そして何もないのなら…

自分は、かつて喪って(続いている)きた仲間たちと、同じ道を歩もうとしている。
ようするに、自分が彼らになるだろうということだ。

支援はない、何もない、存在しない、絶対にだ。

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